乳がん体験記患者として望むこと

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  自己紹介   食欲減退
  病名と病期   放射線治療
  しこり発覚   冷房バトル
  病院に行くまで   抗がん剤治療
  初めての診察   患者のため息 (加療中のにおい)
  胸の触診   患者のため息 (菌に対する配慮)
  3人目の触診と細胞診   抗がん剤治療の副作用
  思いきり泣ける場所   退院した時
  結果がでるまで   ストレスと挫折
  告知前日   精神的な病の併発
  先生からの告知   心のケア
  セカンドオピニオン   看護婦さんの心遣い
  告知を受けて     病院関係の方へのお願い
  両親への告知   患者としてのぞむこと(ストレスの緩和 )
  手術前の心境   患者としてのぞむこと( 退院後のケア )
  主人の励まし   ありがとう (お世話になった皆様へ)
  手術前日から 手術まで     その後のご報告
  手術後のイライラ   2000年の私
  傷口との対面   21世紀の私  近況報告!!
  ホルモン療法   病気を抱えている方へ
 

自己紹介

SONOE (そのえ) 
昭和39年生まれ 
現在 神奈川県川崎市在住  夫とふたり暮らし 子供はいまのところ無し
主人は 昭和36年生まれ 内装関係の仕事をしています
私は 三人姉妹の長女  次女が都内の病院の看護婦で
三女は同じ川崎に住む専業主婦で 3児の母です(2000年12月に4人目出産)
私たち姉妹は 小さいころはよくけんかもしましたが
今では主人たちが不思議がるくらい仲良く 毎日のように連絡をとりあっています


私の 性格は 明るく 活発なほうですが 実は 涙もろく 神経質なところもあります
姉御肌で 世話好きで 人と接することが 大好きです
趣味は パソコン・カラオケ・スキューバダイビング!!
とにかく 体調バッチリにして 早く 海に潜りに行けるようになりたい!!
そして 地球と海の底をどれだけ歩き回れるかが 私の目標でもあります

病気発覚まで 池袋のデパートで 接客の仕事と ボーカルの講師をしていました
とにかく 歌うことが大好きで 病院にも カラオケ施設が欲しいと思うほどです
主人も ベースを教えていましたので 2人とも 10代から音楽中心の生活で
過去には そうとう 不摂生な生活をしていました。今になって とても反省しています
主人とはバンド仲間として知り合い 1992年に結婚 
共働きで 毎日 めまぐるしく 動き回っていました
結婚して間もなくは 体も心も若かったせいか 仕事と遊びに夢中でしたが
そろそろ 子供が欲しいし 婦人科にでも行こうかな と 思っていた矢先
結局 別の件で 病院へ行くことになってしまいました



病名と病期

私の病名は 乳頭状腺管がん (硬癌)簡単に言えば “乳がん”です
主治医の先生から 詳しく伺ったところ 手術前は 胸のしこりが かなり大きくさわった為
病期は ステージVa ・・(病期は Tから W まで)
しこりが5cm以上で リンパ腺に8ヶ所 転移ありと言う事でしたが
術後の病理の結果 しこりは 3cmということで ステージUだったそうです
本などで調べると 5年生存率 10年生存率のパーセンテージが 随分 違い
その違いは 私にとって大きいものでしたので 少しだけホッとしました



しこり発覚

1998年 2月ごろ なんとなく 左脇の下に異物感を感じ さわってみたところ
2cmほどのビーダマのようなしこりを 自分で 見つけました
押してみると 内出血を押した時の様な にぶい痛みがありました
私は 10数年前に やはり 左鎖骨のリンパ腺が腫れ 発熱が続き 原因が分からずに
3ヶ月も 入院し 悪性リンパ腫の疑いをかけられたのですが
結局は 菌による感染症と診断されたことが ありました
今回も その時のことがよみがえり “もしかして悪いもの?”
と 思う反面 “また リンパ腺かあ・・”という感じで その時はまだ 胸のしこりの方は
あまり 意識していませんでした



病院に行くまで

ちょうど そのころ 私達 夫婦は 結婚6年目にしてはじめて
長期休暇をとり 海外旅行を予定していました
私達は 結婚当時 祖母が病気だったこともあり 新婚旅行も行けなかった為
その グアム旅行を 楽しみにして いろんな計画をたてていました
もちろん 趣味の ダイビングが中心でしたが 楽しいことを目の前にして
私は 旅行から帰ってから 病院に行くことに決め
約1ヶ月 しこりを 野放しにしてしまいました
今 ふり返れば 大バカ者ですが その時は 病院に行く恐さを
楽しさで埋めていたような 気もします


そして 3月下旬 やっと 病院に行く気になり 病院に行く前に まず
妹たちに 打ち明けました
そして シロクロはっきりするまで 両親には 内緒にすることを 約束してもらいました
特に 母親は 人一倍 心配性なので 今 話せば きっと
結果が出るまで 苦しむだろうと確信していたので みんなで 相談して 決めました



初めての診察

そして 3月下旬 近くの診療所で診てもらうことにしました
女の先生に 脇の下のしこりを 触診してもらったところ やはり “しこりは
2cmほどあるので 大きい病院で 詳しく調べた方がいいでしょう“と言われ
妹の働いている都内の病院にお世話になることに なりました

そして 4月のはじめ ドキドキしながら 病院へ
その頃には 脇の下だけではなく 左乳房外側にも さわるとかたい部分があるようで
“もしかしたら 乳がんかもしれない”と 疑うようになりました
そういえば なんとなく 右よりも 左の方が ぶつかった時など痛みがあったこと
3〜4年前に 少し 気にした時期があったことを 思い出しました
でも“がん”なら痛くないって聞いたことがあるし…私に限ってまさか…みたいな
気持ちもあり 診察まで “かもしれない”と“じゃないかもしれない”が いりまじり
あとは 初めての胸の触診に対しての 恥ずかしさもプラスされ
逃げ出したい気分でした



胸の触診

この病院で最初に診ていただいた先生は 年配の男の先生でした
触診ということもわかっていたので 若い先生じゃなくて 少しホッしたのですが
診察室に入ったところ 結局 若い男の先生もいて 触診は その先生が
やることになりました。乳房に ムースのようなものをつけられ
年配の先生の指示で 若い先生が 触診をはじめました
私は顔を赤くしながらも “ここが 堅い様なんです”と 場所を示し 若い先生は
“あっ これかな?”としこりに気づき 年配の先生に指示をうながし触診を交替しました
結局 年配の先生にも診てもらいましたが 診断は
“たぶん 乳腺が他の人より 堅いだけだと思いますので
2週間後に また 診察を受けてください”
と いうことでした
正直なところ 触診だけで終わるとは思いませんでしたが 2人の先生が診て
そう言うんなら“私の考えすぎなのかな?“と思い 病院をあとにしました

家に帰ってからも なんだか 落ち着かず 乳腺炎になった友達などに
相談したりして 不安のうちに 2週間を過ごしました



3人目の触診と細胞診

2週間後 予約外来に行きましたが 前回の先生たちではありませんでした
また 触診です。私も あまり若くはないとはいえ やはり 女性 です。
3人目の触診も 緊張し きっと 顔は 赤かったと 思う・・・
触診のあと 先生は 胸のレントゲンと 超音波検査を すぐ手配してくれて
検査後にもう一度診察室へ 呼ばれました
“しこりが 悪いものかどうか すぐにはわかりませんが もし 今日 時間があるようなら
午後に 細胞をとって 調べてみましょう“と言われ その日のうちに
細胞診を受けました

細胞診はおっぱいをつまんで しこりに何ヶ所か針を刺して 
がん細胞がそこにあるかどうか調べるためのものです

局部麻酔をして 「あら? もうおしまい?」というくらい短時間で終了し
痛みもその時は 思ったほど感じませんでした



思いきり泣ける場所

帰りは 主人に迎えに来てもらい 気を紛らわすため その足で 映画を観に行ったんですが
胸は ジンジン 痛んでくるし これからの不安が ドッと 押し寄せてきて
暗い映画館の中で まわりの人達の感動の涙にまぎれ思う存分 大泣きしてしまいました
となりに主人がいることが よけいに 複雑な気持ちにさせ 映画の影響だけではなく
もし“がん” だったらという恐怖感、これからの不安…など
いろんなことが 押し寄せて
きて 映画が終わる頃は 頭痛がするほど泣いていました

しかし 映画館って 思いきり泣くのには いい場所だったんだね



結果がでるまで

家に帰るころには 細胞診の痛みもなくなり 気持ちも少し落ち着きましたが
寝る頃になると また 頭の中は さっき見た映画と 自分の不安でいっぱいになり
最悪の状態まで 想像力がはたらいて とんでもないことを考えたりしました
映画の中で 本当に大切な人と別れなければならない せつない場面がありましたが
もし 私が “がん”で 手遅れだったら いつまで 生きていることができるんだろう
私は 親や 主人より 先に 死んで行くのだろうか
とめどなく いろんな恐怖が あらわれてきてしまいます
大げさな感情と思われるかもしれないけど
患者ってとんでもないことを 考えていることがあるんです

入院患者の中でも 手術を受ける前に 遺書を書いてきたという人を 何人も知っています
やはり 不安で 恐いんです。
麻酔がかかったまま 死んでしまうんじゃないかって 真剣に悩んだり してるんです。
でも それは そういう状況になってみた人にしかわからない正直な気持ちなんです
細胞診をした夜も “まだ 結果も出ていないのに 考えすぎるな”と主人は言ったけど
私の “がん”に対する不安は消えず 頭の中は 興奮状態
結果も聞かないうちから “私は 5年後 この世にいられるのだろうか”と
真剣に 悩んでいました
今 思えば 検査結果を聞くまでの この頃が 一番 とりみだしていた時期かもしれません



告知前日

そして 細胞診の結果は 5月のゴールデンウィークが終わってすぐでした
それまでは 不安をまぎらわすため いつも以上に仕事に没頭していました
結果の出る前日 いつものように 仕事から戻り 食事をしながら
テレビをみていたとき 主人がポツリと 言いました
“おまえ やっぱり 切らなきゃいけないって…”
あんまり 大げさではなく さりげなく 私に 伝えようとしたようでした
あとから聞いた話では主人は看護婦の妹と連絡を取り合い先に結果を聞いていたそうです
私の ショックを 少しでもやわらげようと 前日に自分からある程度伝えておこうと
思ったそうですが ずいぶん 切り出すのに 悩んだようです
主人が 普通の会話の中で あまりにもさりげなく 告げたものですから
私は 「あっ そう… やっぱり?」って いう感じで 答えたと思います
なぜか その時 私は 涙も出ず 自然に受け止めている自分に 自分でも驚きました
主人も 私の態度を見て びっくりしたそうです
ただ ほんと言うと しばらくしてから 私は 体全体が 小さく震え
足先から サーッと 頭に 血がのぼっていきました

まるで ドラマの1シーンのようで 現実なのかな?夢なのかな?って不思議な感覚でした
主人は わりと いつも冷静で 何事にもあまり動じない性格ですが
今回ばかりは さすがに 動揺が あったようでした



先生からの告知

5月7日 先生から結果を聞くために 病院に向かいました

病院に着き 順番を待って 診察室に入り 先生の前に
私と 主人と 妹と 3人並んで座りました
先生は まず カルテをみながら “残念ながら 検査の結果ですが 腫瘍は 悪性でした”とはっきりと 告げられました。そして
“検査は 針を3ヶ所の細胞に刺しましたが あなたの場合 すべてが クロということで
段階でいうと 5段階の 「X」でした。“と 詳しく説明をうけました
学校の通信簿だったら 大喜びの評価でしょうが こればかりは ガックリきました

先生は 続けて エコーの写真を指差しながら おっしゃいました
“脇の下のしこりですが ここに いくつか白く写っているものが ありますね?
これは 乳房の方から 転移 したものです
乳がんの告知と同時に “転移”も 告げられてしまいました
でも ストレートに言われたものの 前日の主人からの ワンクッションがあったためか
特に 大きな動揺はなく “ これが 告知なんだなあ…”なんて 人ごとのようでした

そして 先生は “なるべく 早いうちに 手術した方がいいと思います”
と おっしゃいました
転移までしているのですから あせらずにはいられません
こうなった以上 一刻も早く 悪いものを 体から 追い出したい と思いました



セカンドオピニオン

手術を覚悟したところで 先生が
こういった病気の場合 患者さんによっては 別の病院でも診てもらいたいと言う方も多いですが どうしますか? 遠慮なく言ってください“と おっしゃいました
私も 乳がんの資料を 読みあさりましたので セカンドオピニオンを 知っていました 
がんなどの病気の場合は特に いくつかの病院で調べ 納得のいく治療を選ぶ方が多いです
患者は 病院や医者や治療方法を 自分で選択することが できる
のです

私の場合は 妹が働いている病院で 手術を受けたいと 思いましたので
その場で “こちらで お願いします”と 答えました



告知を受けて

告知の善し悪しは よく 問われています
いろんな意見があると思いますが 私は 自分の病気は
自分がよくわかっていればこそ 治癒力が増すと 思っています


さすがに “転移”という言葉に 少々あせりましたが もし それをうやむやにされてたら
乳房も 少しでも残そうと思ったでしょうし つらい治療も 拒否していたかもしれません
“転移”があることを 知っているからこそ 油断しない様に
がんばれるんだと 実感しております

私としては はっきりと告知されたこと ありがたく思っております



両親への告知

告知されたその日のうちに まず 私の両親にすべてをうちあけることにしました
心配性の母に とんでもない“母の日のプレゼントをしてしまいました
私や妹では 感情が先に走ってしまうため 主人が話をすることになりました
主人は 冷静に 言葉を選び 母を落ち着かせながら 少しずつ話をしてくれました
そのおかげで 母は 取り乱しはしませんでしたが 案の定 泣かれてしまい
それが 私にとっては 自分の告知より つらかったと思います




手術前の心境

しかし 涙ばかり流してはいられません!
なにせ 体の中に 悪いものが住み着いていつのですから なんとかして
鬼退治をしなくてはいけない!!
とにかく 5月末の手術までは 体力を落とさない様に 良く食べ 良く寝る
当たり前のことを意識しながら過ごしました


そして 手術の3日前から入院し ひととおりの説明を受けました
その 3日間は なんとも 複雑な心境でした
34年間 私の体の一部として 一緒に育ってきた 左のおっぱいを
なんだかとても いとおしく 思いました

主治医の先生は 4分の1 切除も できなくはないと 言われましたが
再発の可能性や 私の場合 しこりが繊維化していたこともあり
「何度も切るのはイヤだから 全部取っちゃってください」と自分から言ったものの
なんだか “がん”という 悪質なくせものに
大切なおっぱいを奪われてしまうという くやしさで いっぱいでした




主人の励まし

強がりな私は 特に主人に 泣きごとをいうことはありませんでしたが
主人が私の心情を察し インターネットで乳がんのHPを検索し
参考になる資料や患者さんの日記など どっさりと 病室にかかえて持ってきてくれました
その資料には 同じ病気の人が 今 とても 多いこと。
年齢層も 20代 30代が 増えていること…

そして もっともっと 重症の患者さんが たくさんいて 前向きにがんばっていること…
これから 手術をうける 私にとって とても 勇気づけられるものでした
きっと これが 無口な主人の 精一杯の励ましなのだと 思います



手術前日から 手術まで

いよいよ 手術です
私は 性格的に 人前でつい かっこつけてしまうというか 常に明るいキャラクターで
とおっているせいか 外面をがんばりすぎてしまい 夜 ひとりきりになると
急にブルーになってしまったりすることがあります
手術前日の夜も 実は 悲しくなって 布団をかぶって ちょっとだけ 泣きました…
しかし 当日の朝は 家族が勢揃いだったので 複雑な思いは隠し 精一杯明るくふるまい
手術室へ入る時もデートの帰り道のような笑顔で 主人に 両手でバイバイをしていました

手術は 胸筋温存乳房切断術大胸筋を残して
乳房と小胸筋とリンパ節を切除する方法
でした

転移しているリンパ節は全部取り除けたということ(絶対治癒手術)でした。

手術じたいは 全身麻酔だったので 「麻酔のお薬入りますよ〜」の声と
「○○さ〜ん 終わりましたよ〜」が まったく くっついている状態で
私には 時間がひとっとびしてしまったような感じでした



手術後のイライラ

3時間ほどの手術が無事に終わり それほど 痛みもなく 意識もはっきりして
私は 翌日から 売店に行けるくらい元気なICU患者でした

唯一 手術後 つらかったのは 片手が使えない上に ドレーン(術後の傷口から出る
余分なものを溜めるための真空パックのような容器)
がついているため
いろんな イライラが 発生してしまったことです
起き上がる時 歯磨きする時 電話をかける時 そして トイレの時…
片手というのは 下着もうまく脱げませんし 点滴が右手に入り 左下に ドレーンの管と
流れ出た液がたまる袋をぶらさげ 最初は心電図もついていて ロボット状態でした
やっと 下着を脱いで 用を足そうとするのですが
その上 畜尿(尿の量を確認する為 出たものを かめに溜めておく)
があったりするので かがんだとたんドレーンの袋が床に落ちてしまったり
とにかく 汗をかきながら 小さな個室で くるくる回りながらの 大仕事でした



傷口との対面

手術後 多少 腕のしびれなどはありましたが 経過は順調で 食欲もすごくあり
手術後 先生とのはじめての会話は
「どうですか?」「おなかすきました〜」でした

ただ 傷口は しばらく恐くてみることができませんでした
やっと見たのは 抜糸の時で 数えてもらったところ 31針の長い傷でした
今は 傷が見えないほどキレイで 一直線で 筋肉も残っているため 力もちゃんと入ります
最近では 大好きな露天風呂も 満喫できるようになりました
“私は 悪いことをしているわけじゃない!” そう 思うようになってから
人の目も それほど気にならなくなりました



ホルモン療法

手術後2週間たってリハビリーも順調、腕も調子良く上がるようになり
点滴やドレーンなどうっとおしいものは すべて なくなり
6月中旬より ホルモン剤の服用が 始まりました

私はタモキシフェン(エマルック)を毎食後服用しました。

副作用は生理不順(無月経)や更年期障害の症状(頭痛、ほてり)があります。
“ホルモン剤は 太る”ということで 少し 気になってはいましたが
まずは 体力!と思っていましたので毎日 出された食事は きれいに食べ
今は 病人とは 思えない体格で 10キロも増量し
着実に脂肪を貯えております…!?



食欲減退

ホルモン療法をはじめて 3日ほどたったころ 思いがけないことが おこりました
突然 食欲がなくなり 朝食がのどを通らなくなってしまったんです
今まで 気丈にがんばりつづけてきた張り詰めた気持ちが 一気にくずれて
朝食を目の前にしたまま カーテンの中で ひとり ポロポロ泣けてきてしまいました

この泣き顔じゃ お膳を下げにもいけないなあ…と思ってたところへ
日勤で出勤してきた妹が 「おはよ〜」とカーテンをあけてしまいました
私は 理由がほんとに些細なことだったので なんだか 恥ずかしくなって
泣き笑い顔で「食欲なくて なんだか 悲しくなっちゃった〜」と答えました
妹は その後 勤務につきましたが
午後になって 総婦長さんが病室まで 足を運んでくださいました
妹も 私を心配して 相談したようで 総婦長さんは “どうした?”と言って
私の話を“うんうん”と 優しく聞いてくださって 帰り際に
“なにか あったら いつでも 相談に来なさいね”と 言ってくれました
私にとって その時 総婦長さんの存在が 神様のようで 本当に うれしかったです
おかげさまで だいぶ 気持ちが楽になり “病気だもん 食べられない時だって あるんだ。それよりも 前向きに行こう!“と 思い直すことができました



放射線治療

そしてホルモン治療と同時に 放射線治療の為 入院しながら
近くの病院へ 毎日 通院ということになりました
(入院した病院では 放射線治療ができない為 病院から歩いて10分の病院へ)
週5回 を 続けて5週間 計25回  高エネルギーの放射線で がん細胞をやっつける治療
ですが この治療は大きな副作用はなく 治療じたいは毎回 短時間で終了するため
外出して散歩する楽しみが優先し はじめの頃は 往復を楽しんでいました
その頃 イヤだったことをしいて言えば 体にバッテン印が書かれた事くらいで
多少 倦怠感はありましたが とにかく 毎日 堂々と外出できることが
なによりも うれしかったので あまりつらさは 感じませんでした



冷房バトル

しかし 7月に入り 蒸し暑い毎日になり 困ったことがありました
それは 同室の患者さんどおしの 冷房バトル でした
一人は 暑がりで 冷房を 強くしたい 一人は 冷房を消して 窓を開けたい
こんな時は 本当に 困ってしまいます
その2人は とにかく自分中心で 無言のうちに パチパチとバトルが続く為
間に入って とても 居心地の悪い状況でした
そして 部屋で汗をかくことも多かった為 放射線をあてた所がかゆくなり
鎖骨のあたりに 水泡が
できてしまい 結局 続けて治療しないと効果も薄れると言う
放射線治療を 2週間も中断されてしまいました
このときばかりは 私も 気落ちし 6人の同居生活にストレスが発生してしまいました
看護婦さんによっては 夜など 調節してくれていましたが
みんなが寝静まったころ 忍び足で 調節することも よくありました

そんなことがありましたが 8月の上旬には 放射線治療も 終了し
つぎの 抗がん剤治療を 続けて 入院で 行うことになりました



抗がん剤治療

抗がん剤治療は 私の場合 8週間で 3クールの予定ですが もともと白血球の数が少ない私は入院治療となり 約11週間 かかってしまいます
(1クールで 抗癌剤は点滴で2回 白血球の数値が上がるまで 約3週間かかる)

私の場合はCAF療法(エンドキサン+ピノルビン+5-FU)でした


この治療が始まってからは ほとんど 病院の中で過ごすことになります
副作用により白血球が少なくなると病室のカーテンをしめ人との接触を避け
外出はもちろん禁止 うっとおしいマスク ただでさえ食欲が落ちるのに
なま物禁の2重ラップの滅菌食 ……どんどん ストレスは蓄積されてしまいます

唯一の楽しみの 屋上ハイキングも 雨が降れば おあずけになります
こんな状態を 抗がん剤治療をしている患者は 繰り返しているのです



患者のため息 (加療中のにおい)

そして 食欲が落ちるのと同時に まわりのにおいに とても敏感になります
食事のにおいもダメになり アルコールのにおい トイレの酸っぱいにおい
男性患者さんの整髪料や 看護婦さんの香水などが とても つらいにおいになります
それで 吐き気が 襲ってくることも 正直言って あります

私の場合は 加療中 いつのまにか 私の他 5人全員が ポータブル(仮設トイレ)になってしまい
申し訳ないと思いつつ 他の部屋へ 移動させてもらうほど 苦痛でした
病院へお見舞いに行くときは 香水をつけてはいけない・・・というのは
こういうことだったんだ〜 と 初めて実感しました



患者のため息 (菌に対する配慮)

そして もう一つ 加療中に過敏になることがあります
抗がん剤治療では 白血球が減少し 菌に感染しやすくなります
もちろん マスクで自己防衛はするのですが 同室の人が 風邪をひいてしまったり
先生や看護婦さんが鼻声だったりすると 非常に不安です
年寄りには たかが風邪が命取りになることもあるかもしれません
院内感染防止のためにも 風邪の時のマスクを義務づけてほしいという意見も多いです

この治療を受けている人は そういうことに敏感になっていて
些細なことに過剰になってしまうことがあります
でも 肺炎やインフルエンザにでもなったら…という不安も常にあります
どうしても トイレに行ったり お茶を汲んだり カーテンの中だけにいられないので
できる限りの対処を 病院側に お願いしたいと思いました
自分でも充分注意していますが 菌は もとから絶ってもらいたいのが 本音です



抗がん剤治療の副作用

そして この抗がん剤治療には たくさんの副作用があります
倦怠感 吐き気 食欲減退 白血球減少 など人によって副作用の程度もさまざまです
最近では ある程度 薬などで 抑えることができますが
これだけは止められないという副作用もあります
それが 脱毛です

抗がん剤はがん細胞をやっつけると同時に 毛根・爪・白血球などの細胞も
一時的に造られなくなってしまいます

抗がん剤が体に入って 約3週間で 髪が抜け始めます

毎日大量に 髪が抜け落ちて 毎朝 まず ベッドの掃除から 一日が始まります
ベッドの上で 髪の毛を拾っている自分が 悲しくもあり 情けなくもあり
さすがに 最初の脱毛は 鏡を前にして 泣きました
髪は 女の命と言いますが 一時的とはいえ つらいものでした
色とりどりのバンダナを用意し 頭に巻きつけて散らからないようにしているのですが
それでも 部屋中 髪の毛だらけで お掃除のおじさんに 申し訳ないくらいでした



退院した時

最初の抗がん剤治療は 何度か吐き気と倦怠感に悩まされましたが
私の場合 2〜3日で食欲も回復し それほどのダメージはなかったようでした

そして なんとか3クールを終了し 私は5ヶ月という長い入院生活から
やっと解放されることになりました 
退院を目の前にした時は 旅行に行く時のように ウキウキし
外の風を感じることが 太陽の光を浴びることが こんなにも気持ちいいことだなんて こうなってみないと わからないことでした
入院生活は いろいろつらかったこともあったけど
こんな感動を教えてもらえたことだけは プラスだったなあ と思いました



ストレスと挫折

それから 3ヶ月を川崎の我が家で過ごし 1999年の2月から4月に
2度目の抗癌剤治療のため入院
そして 夏は思いきり遊んで リフレッシュしてから
9月から12月に 3度目の抗癌剤治療のため入院
振り返れば 1998年5月から の 1年半のうち 約10ヶ月を
病院の3階病棟で 過ごしていたわけですので ストレスがたまるのも
あたりまえ なのかもしれません

私は 出来る限り 前向きでいこう!と思っていたので 先生や看護婦さんに
わがままを言いながらも 私なりにがんばって治療に専念してきたつもりでいました
しかし 3回目の入院の 最初の治療で とことん 挫折を味わってしまいました
入院2日目にして 弱音をはいてしまい 1クールが終わった頃は 最悪の状況で
誰とも話したくないし このまま精神的に どうかなってしまうんではないかと思いました
やっと 外泊許可が出た時は うれし泣きで ばんざいまでしましたが
結局 外泊先から “病院には 戻りたくない”とだだをこねて 大泣きして
主人をさんざん 困らせてしまいました
とにかく “もう イヤ”でした



精神的な病の併発

何日も体のだるさと吐き気が抜けず 食欲もまったくなく TVも見たくない
大好きな音楽さえも聴きたいと思わない…とにかく 何もできず
ベッドの上でため息をつき 食事の時間が なにより苦痛でした
食べ物のにおい アルコールのにおい 白いシーツ……
なにもかも いやでいやで 逃げ出したい気分でした
それでも なんとか 気分を変えようと
白いシーツを大判のタオルケットで 隠してみたり 昼間は パジャマからTシャツに
着替えてみたり 自分なりに工夫してみるのですが 今回はどうにも気分がすぐれず
精神的に 追いつめられてしまいました
そこで はじめて 病気や治療の苦痛は 精神的な病を 併発するんだなあと
身をもって 実感しました

とにかく しばらくは 点滴台を見ただけで 吐き気がするし 外出の時 なんと コンビニで
サクランボのお水という飲料水を見て 赤い色の抗がん剤を連想し 目を反らせるしまつで自分でも 本当に 困ってしまいました
しばらくして 副作用が軽くなってくると 先日まで
「この治療をやらなきゃ 死んじゃうって言われても いやだ」と言ってた私を
なんだか 恥ずかしくさえ思います



心のケア

いやいやながら 病院に戻ってきた私に 救いの手を差し伸べてくれたのは
病棟の看護婦さんや 先生たちでした

なんとか 私を 元気印にさせようと おもしろい本や マンガを貸してくれたり
私の大好きな音楽を 録音してきてくれた看護婦さん
吐き気が襲ってきたときも 何度も声をかけてくれて 「ガンバ!」って 励ましてくれた
快く 外出や外泊の許可をくれて おいしいラーメン屋まで教えてくれる先生たち
治療の日は 一日に何度も 「どう?」って 顔をみせてくれたから・・・
本当に 助けられ 心の病まで 治していただいたようでした
おかげさまで やっと 気持ちも持ち直し なんとか 次の治療への覚悟ができました
そして 治療を全部がんばることができ とても 感謝しています
今は 主治医や看護婦さんと メール交換しています



看護婦さんの心遣い

ある時 同室のおばあちゃんに 看護婦の妹が 話しかけていました
なんだか 声がいつもと違うので あとから 妹にたずねたところ
それは 妹の おばあちゃんに対する 心遣いだということを 知りました
おばあちゃんは耳が遠いので 低くて太い声を出した方が 聞き取りやすいとのことでした
それを聞いて “看護婦さんと言うのはすごいなあ”
“一人一人にいろんな気遣いがあるんだなあ”と
我が妹ながら 感心してしまいました


病院関係の方へのお願い

患者としてのぞむこと( ストレスの緩和 )

これは 患者としてのぞむことですが できたら 病院の中に
精神的なケアをしてくれる場所が あったら どんなにありがたいか と 思います

私も 長い入院生活の中で たくさんの方と知り合い お互いの胸の内を 吐き出し
なぐさめあって来ましたが 正直言って 自分がダメージを受けている時は
自分のことで精一杯だったりすることもあります
ストレスがたまり 誰にもこぼせず 看護婦さんや先生はお忙しいため
最小限のことしか話せないのが 現状です

身内には 心配かけまいと元気にふるまい 患者同士でお互い愚痴は聞きたくない
吐き出す場所がなくて ためこんでしまうことがある
もし それを 吐き出させてくれる場所 精神科とかじゃなく もっと気軽な相談室のような
場所 が あったら と 思います。 もしくは 話を聞いてくれるような
ボランティアの方がいたらと思います

最近やっと HIVカウンセラーが 厚生省の通達で病院に配置されたそうです
医療費は保険でまかなわれていますが 病名の付くような精神的疾病以外は
心理的ケアは保険の適応にならないそうです
ある病院では 1回1000円程の有料ではありますが ストレスを問診した後
香りや音楽でリラックス状態にする施設を作ったそうです
心の休まる場所がいかに 大切かという事が だんだん 繁栄されつつあるのだと思います

病院には 心が傷ついた人がたくさんいます
患者は 自分の苦痛を誰かに聞いてもらうだけで ストレスが緩和されていきます
私も 心配してくれるお友達に どんなに 救われたことでしょう
でも ストレスは 吐き出す場所がないと 毎日少しずつ 増えてしまいます
まだまだ 今は 身近な 看護婦さんや先生方に頼るしかないのかもしれませんが
患者のぼやきも 病気のひとつだと思って 聞いてほしいのです



患者としてのぞむこと( 退院後のケア )

もう一つ これは 私の提案で 私の病気と関係があるのですが
リンパ節を切除しなければいけない病気の場合 術後には非常に深刻な問題があります
それは リンパ液の流れが悪いために 腕や足などが腫れ上がってしまうという
リンパ浮腫です
私も 今 利き腕の右より 術後の左の方が 2cm程 太くなってきて 非常に不安です
これは 一度そうなってしまうと 元に戻りにくく 非常にやっかいなものです
しかし 現実には 資料も少なく なかなか情報が入りません
リハビリの進んだドイツでは リンパ浮腫専門の病院があるようですが 日本ではまだ
充分な知識を持った方が少なく “病気”として あまり 認知されていません
同じ病気の方々と話をして 情報交換をしていますが 個々に 新聞や本や インターネットをたよりにして ケアの仕方も さまざまです
マッサージが良いとか 患部を高くして寝るとか 患部を酷使しないという
基本的なことは先生などから 教えていただきましたが マッサージも実際は
方向や 流れを考えないと 逆流などもあり 逆効果になることもある
そうで
ほんとうのところ なにが いいんだか わからなくなっています
そこで 是非 病院の方々に いち早くそれを取り入れ 勉強して
少しでも ケアに役立ててほしいと 思っております
乳がん 子宮がんという女性特有の病気は 他にも
先生に聞きにくい悩みもあると思います
特に一人暮しの方は 退院後に一人になる不安が押し寄せ 鬱になることもあるそうです
もし 退院後のケアをしてもらえる場所とか 退院するまでの間に
何人かを集めた勉強会などしてもらえたら 同じ病気の人とのつながりも持てるし
お互いに情報の交換など出来るのではないでしょうか

もし 勉強会などあれば 私も率先して参加したいと思っています



ありがとう (お世話になった皆様へ)

私のお世話になった病院は ほかの病院に比べ 看護婦さんや 先生をはじめ
暖かみのある職員さんが多いと 誰に聞いても 評価の高い答えが 返ってきます
食事もおいしいし 一人一人の治療食を細かく配慮してくれて 先生や看護婦さんは
毎日 何度も声をかけてくれて とてもありがたいことだと言います
ある病院では 主治医の先生と 何週間もあえないことも あるそうです

ナースコールを 頻繁に押してしまう方もいるし 時には イライラもあると思いますが
患者も ひとりひとり いろんなストレスをためています

同室の人が起きてしまうと悪いから 夜には トイレで鼻をかんだり
吐き気があるときも みんなの食事中に吐くことがないように 気を遣ったり
看護婦さんが申し送りをしているようだから もう少し待って お願いしようとか
みんながみんな わがままな患者ばかりではありません
時には 看護婦さんとムダ話がしたくて 足を止めさせてしまうこともありますが
患者はちょっとでも話すことで 安心するんです
そして 私達にとって 先生や看護婦さんの「どうですか?」の声は
ほんとに ホッとして 安心する 心に良く効く 特効薬になっています

そのことを 是非 胸において 接していただきたいと思います

私も“がん”という 気の休まらない しつこい病気をかかえ
悩むことも 実際 多くありますが 支えてくださった方々に 感謝を忘れず
これからも 前向きに 生きていきたいと思っております

主治医のN先生はじめ外科の先生方、 3階病棟の看護婦さんたち、
総婦長さんはじめ病院の方々
心配してくれた たくさんのお友達、暖かい気持ちをくださった親戚の皆様 そして・・・
両親、妹たち、最愛なる旦那さまに 心からお礼を言いたいです 
ほんとうに ほんとうに ありがとう!!


その後のご報告

2000年の私

1999年12月にすべての治療をひととおり終了したと思いこんだ私は
「21世紀に再出発!!2000年はその準備期間だぁ〜!」

毎日を有意義に過ごせるように ストレスになるものを最小限にして
気持ちを楽にして 遊びに勉強に体力作りに・・・
もちろん、家事は手抜き、やりたいことを優先に わがままし放題?


あ〜それでバチがあたったのぉ??
8月に腫瘍マーカーがすごいことになってしまっていた
腫瘍マーカー(腫瘍があるか否か血液検査でめどをたてる)
は2種類調べることが平均的になっているそうだ。


私も2種類調べていたが そのうち CEAの値がすごい勢いで上がってしまった

CEA 70 ということで ・・・検査がはじまったのだ。
(通常 1.0以下なのだから ものすごい高いのだ)
腸の検査、胃の検査、エコー、CT・・・異常がない!!

でも・・・ついに原因がわかったのは 骨シンチ
(血管から造影のための放射性物質を注入すると、異常な部分は黒く写る)
そしてMRI(磁気により、より鮮明に異常が見つけられる)の結果でした。
どちらも 不鮮明ではあるが なんだかわからない影がいくつもある。

骨転移だった。ショックだった・・・・。

ついに来ちゃった。再発だ。私はこれで病期が一気にステージWか。
主治医の先生は 痛みが出てくるかもしれないと言う。
藁にもすがる気持ちで 妹がくれた「サメの軟骨」を飲み始める。
この状態の患者は ほんとに藁にしがみついてしまうのだ。
その気持ちはやはり同じ経験をした者にしかわからないでしょうね。
今のところ 痛みはないけど・・・不安がいっぱいだ。

いつになったらこの不安から開放されるのだろう・・・
もう 一生この不安からは開放されないんじゃないかな・・・きっと・・・
だったら私は不安から開放されることを望むよりも 
不安と共に、不安を小脇に抱えて 一歩一歩前へ前へ前進しながら
後ろを振り向かないで、生きてやろうじゃないの!!


2000年8月末から2週間入院で経口抗がん剤を始めた。

最近注目されている進行乳がんに効果をあらわしている療法だ
MPA(黄体ホルモン、プロゲステロン剤  ヒスロンH)
+CPA(サイクロフォスファミド)
+5’DFUR(フルツロン)


もともと白血球が少ない私は入院で様子を見たのだが 特に副作用もなく
白血球も減らない
ので、すぐに退院し そのまま続けることになった。
予定では 4クール。2週間投薬+1週間休薬で1クール
なんとか今年中に終了だ。よかった。


9月の検査では腫瘍マーカーCEAは 104 だった。
不安は高まるが 今は経口抗がん剤の結果を待つしかないのだ。

もどかしいぃぃぃ!!

でも 私自身の中で 私の細胞が「悪いヤツ」に変身しているんだもの
なんとか言い聞かせて おとなしくさせなくちゃ!!
そのためには 言い聞かせてくれる戦士たちを育てるのだ!!
白血球くん!!NK細胞くん!!負けないでくれ!!


今は マーカーの下降と痛みが来ないことを願っている



21世紀の私

★ 2001年の私(術後3年生)  

腫瘍マーカーは CEA 138 まで昇り続けた。
しかし、21世紀最初の血液検査で 87.4。
2月末 腫瘍マーカーの結果は 80.9 だ。
4月末・・・78.1
やった〜。喜んだ私・・・

しかし、夏になり、婦人科のマーカーとCEAはまた上昇。
よ〜し!」
私の挑戦が始まる!!
こうなったら 自力でマーカー下げてやる!!
その結果 「214
まで上がったCEAは 前回の検査で「207」
微妙だけど、下がったのは事実だ!!

2001年10月・・・残念なことに、またもやマーカーは上昇している・・・
だけど、もう一度下げるぞ〜っという姿勢は 持っていようと思う!


9月の検査で特に他の転移は見られないため、私の希望で
今は 18クール目で
経口抗がん剤 を終了することにした。
しばらくは自分の体を薬から開放してあげようと思ったからだ。

10月 骨のレントゲンの結果・・・
骨に関しては 溶解性ではなく
硬化性というもので、
圧迫骨折などはしにくいものの、治験の対象からははずされてしまいました。
腫瘍マーカーは
CEAが207から359に NCC439が10.9 CA15-3が37 
いずれも値は高いので 進行している可能性は捨て切れない・・・
どこでどのように癌細胞がうごめいているのかは まだ把握しきれていない状態。どうしたもんでしょうねぇ〜。

採血の結果 卵巣の機能は閉経状態であった。(2001年10月末)
そこで 11月より 
アリミデックスというホルモン剤を服用することになる。
年末に血液検査をして 効果の有無を確認してから次の治療を考える。

タキサン系の抗がん剤を週一回 外来で受けることになるかもしれない。
また 次の検査結果を待って、すべて相談で決めることになるでしょう。 

★ 2002年の私(術後4年生)  

なんと、1月8日 秋からの腰痛が胸椎の圧迫骨折によるものとわかり、
この日より コルセットを着用する。
痛み止め
ロキソニンを日に3回服用。しかし・・・
痛みがひどくなり 1月12日、緊急入院することに。

ボルタレン座薬にて痛みが落ちつくが、血液検査などの結果により
入院しながら 次の治療へ。
思っていた通り、タキソールの投与。そして 骨転移の治験薬を
受けることになった。
40日の入院中に タキソール1クールと治験第一回目を受けてから
通院となる。

今年の幕開けは 朝日新聞の連載という明るいものと
その最中に緊急入院という なさけないものと・・・
まあ・・いろいろ あって おもろい一年になるのでしょう!!
そう 期待しながら・・・前向きに治療をうけていこうと思っています!

 

★ 最新近況報告 2002年5月 

現在 タキソール4クール目。そして 治験も4回を終了した。
腫瘍マーカー(4月19日) CEAが「777」から「709」へ。
ちょっぴりだけど 下がったので 花○!!

 4月の検査結果
骨シンチは それほど変化はないが 多少集積の広がった部分もあるが
シンチは毎回出方が違うので あまり 気にしない方がいいらしい。
腹部エコー 肝臓の転移は みられない。OK!
胸部CT 肺のちらちらが 消えてきている。タキソールや治験薬が効いてる!
タキソールは4クール予定だったが 続行することにした。


でもでも・・・まだまだ 踏ん張るぞぃ!!







乳がんになってから 考えることがある。
今・・・今、現在 私が出来ることは何だろう???

ひととおりの治療を受け、精神的苦痛も存分に味わい、今は「再発」という
リスクを背負いながら、いったい何ができるんだろう??

やっとわかってきた。
とにかく この世の中で一握りの人間しか経験できない貴重な体験をした私
そうだ。伝えなきゃ!!
そして同じ病気で苦しんでいる人達に「こころの元気」を分けてあげよう!

きっと そうすることによって 私も「元気」になれると思う。

せっかく21世紀まで 生きてきたんだ。
ふんばって、ふんばって、もっともっとふんばって・・・
自分にプラスになることを 一生懸命やっていこうじゃないの!!

負けないよ。くじけないよ。愛する人達がまわりにいてくれる限り・・・
その人達に 悲しい思いはさせたくないよ。

だから 私は 夢を持って前向きに生きて行こうと思う。
これからの私・・・まだまだ がんばるよ!!!!!


病気を抱えている方へ

不安があるでしょう・・・泣きたくなるときもあるでしょう・・・
でも どうやって生きていっても あなたの人生です
どうせ 毎日 時間は進んで行ってしまいます
それならば・・・あなたは どんな生き方を選びますか?
私は とにかく 前向きに そして 夢を持って 生きています
それが 私にとって 一番の 特効薬なのです
人には 底力があります  
大丈夫!! 自分を信じて 前を向いて笑顔で 歩きましょう!

 

 

  

 

     

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