まゆりんRATSうぃんままそのえ

(注:着物を着て生活しているわけではありません(笑)
-2002年現在のプロフィール-
HNの由来 中学時代以来のニックネームです。
本名とは無関係。旧姓に関係あり。
生まれ 1962年 埼玉県出身
住まい 東京都足立区
しごと 会社員(インターネット関連)
趣味 読書−ミステリ。
(好きな作家=京極夏彦、パトリシア・コーンウェル、M.W.ウォーカー)
美術鑑賞−なんでも。
(好きなアーティスト=森村泰昌、名嘉睦稔)
好きなもの 静けさ。ゆったりしている時間・空間。時を経て変わらないもの。美しいもの。アバウト(いいかげん・テキトー)。
嫌いなもの 騒音。多忙。無意味な争い。無駄な労力。中身のない会話。無礼者。
尊敬する人 トランスジェンダーな生き方をしている人。
(最近注目している人=編物の広瀬光治先生とビューティアドバイザー大高博幸さん)
最近の
マイブーム
LOVE PSYCHEDELICO
青木光恵
つげ義春
ウォン・カーウァイ
靴下屋
やまつ辻田の極上七味
HANAのホームページ

乳がんホームページ

日本の良いもの・美しいもの

私と“集○会”のこと
えらい長くなっちゃいました。スイマセンm(__)m
飛ばして次の人のプロフィールを読んでも怒りません(~_~;)

集○会の成り立ちについてまゆりんが書いてくれた文章は、「HANA対他のメンバーのなれそめ」という感じなので、ここでは私の視点から見た集○会の成り立ちを書いてみますネ。

ず、私が集○会の「代表」ということになっていますけれど、それは、あくまで仮に、形式上、対外的に、便宜上、やむを得ずのことでありまして、実際のところ集○会の中では、上も無く下も無く、誰がリーダーなどということはないんですよ(^^) 私のような気の弱い人間が、この強烈な個性の5人の代表だなんてとんでもない話です(~_~;)

さて、集○会のみんなと会うことになった2000年。
そのころ私は、すでに4年も乳がんのホームページを運営していて、たくさんの乳がん患者さんを自分のHPに迎えていましたが、私自身には本音で病気のことについて相談したり、愚痴を言ったりできる仲間は一人もいませんでした。自分自身も単なる一患者にすぎないのに、いつのまにかHPを通して誰かを励ましたり、アドバイスをするという役割に徹するようになってしまっていたからです。

また、癌というシビアな問題を扱うHPを管理していくのは、趣味や楽しみのホームページとは違ってなにかと神経をつかう部分が多いのですが、そういう苦労や悩みをこぼす相手もいなかったのです。

集○会のみんなと出会うまでは・・・。

そもそも私はあまりフレンドリーな性格ではなく、会わないですむものならなるべく人には会いたくないタイプなので、自分のHPの「オフ会」をしたいなんて夢にも思わなかったし、普通なら誘われてもお断りするのですが、RATSさんからのお誘いは真正面から「オフ会をしましょう」という改まったものではなくて、間違いメールのお詫びのついでに「そういえば」という感じの軽いノリだったのと、その時たまたま私の気持ちがハイな時期だったので、本当に「ちょっとだけならいいかな」なんて思ってしまったんです(笑)もちろん掲示板などで、それぞれのメンバーにシンパシーを感じていたという前提があったからこそ「会ってみたい」と思ったわけですが。

こんなふうに、天岩戸(アマノイワト)からもったいぶってやっと顔を出した天照大神(アマテラスオオミカミ)のような私ですが(笑)、もし あの時みんなに会わなかったら、私と「乳がんホームページ」は今ごろどうなっていただろう?と思います。ノイローゼになるか、HPをたたんでしまったかもしれません。それからは、いろいろな面でみんなに助けられてばかりです。今や集○会に支えられて生きているといっても過言ではないくらいです。人付き合いが面倒で友達の少ない私が、この歳になって、親友と呼べるような存在を、それも一度に4人も持てるとは思ってもみませんでした。

そう考えると、 私にとって、RATSさんの間違いメールは(何度も書いてゴメンね>RATSさん)、そんな私に神様がさしのべてくれた愛の手だったのかもしれません。いや、自主上映会なんて大それたことを主催するはめになってしまった今となってみれば、あれこそ、ここに至るべく「女神ガイア」がしくんだ巧妙なトリックだったのかもしれません。

私たちの出会いに「乳がん」というのは欠かせないキーワードですが、同じ乳がんという病気を体験したからというだけで、私たちはこれほど深く結びついたわけではないと思っています。

同病相憐れむといいますが、私たちは決してお互いを哀れんだりなんかしていないし、傷をなめあったり、愚痴や不満をこぼしあってストレス解消するだけの関係ではありません。

それぞれに、個性が強く、表面的な部分では相容れないことも多い5人ですが、個性を尊重しあい、存在をまるごと認め合い、お互いの生き方や考え方を尊敬しあい、刺激され、磨きあい・・・なーんていうと、大袈裟ですが、とにかく大好きで、大切で、かけがえのない友の○(輪)なのです。




私と“地球交響曲”のこと

私が「地球交響曲」と出会ったのは、(2002年現在)もう10年も前です。当時まだ「第一番」を撮影中だった龍村仁監督のインタビューを雑誌で読み、「見たい」と漠然と思ったものの、そのまま忘れていたのですが、ひょんなことから見るきっかけをつかみました。その後、第二番、第三番も同じように、特に情報収集をしていたわけでもないのになぜか、派手な宣伝もしないこの映画を、公開と同時に観るチャンスを得てきたというのは、「縁」があるんだなあと思います。

そんな風にずっと前から、私にとって、大好で特別な映画なのですが、今まで自分が上映会をしようなどとは一度も思ったことがありませんでした。やたらと誰にでもすすめられるような映画ではない気がして、どちらかというと、「わかってもらえそうな人」にしかすすめてきませんでした。もちろん、たくさんの人にこの映画を見て欲しいという気持ちになったからこそ、上映会を催すわけですが、今でもやはり私自身がこの映画を見るときは、隣に大好きな人、信頼できる人、大切な人にこそいてほしい、という気持ちがあります。

第三番の最初の上映は1997年で、それから何年もたち、地球交響曲のことはあまり気にかけていなかったのですが、集○会のみんなと出会った2000年は、地球交響曲の第四番の撮影がはじまっており、その資金集めのPRのためか、普段よりも上映会がたくさん行われていたようです。
(これも絶妙のタイミングだったといえます)夏に友達の職場の関係で2度目の「第一番」を見る機会を得ました。そして秋「どうしてもこの人に今、地球交響曲(それも第三番を)を見て欲しい!」と思う人がいて、その人を誘って第三番を見ました。

その時はまだ、集○会の皆にガイアをすすめようとは思ってもいなかったのですが、この「第三番」を見たときの会場で配られていた「第二番」の上映会のチラシをみて、「そうだ地球交響曲を集○会のみんなにも見てもらわなくちゃ!」と強く思ったのです。そしてその冬、うぃんままとそのちんと一緒に「第二番」を見ることができました。その後もみんながそれぞれに、いろいろな場所で地球交響曲を見てくれました。


そしていつしか・・・「みんなで地球交響曲の上映会をしたいね」という話が誰からともなくもちあがり、最初は冗談半分だったのが、そのうちに「やろう!」という確たる気持ちに変わっていったのです。一人では、そしてきっと他の誰かとでは、とてもこんな気にならなかったと思います。でも、この5人でなら「やりたい」「できる!」と思ってしまったんです。

長くなりついでに、
もうひとつエピソードを。

私は、数年前から名嘉睦稔(なかぼくねん)さんという版画家のファンだったのですが、その彼が「地球交響曲・第四番」に出演するということになって、とても楽しみにしていました。2000年夏に明治神宮のギャラリーでボクネンさんの個展があり、見に行ったのです。その時たまたまボクネンさん本人が会場にいらしていて、普通なら人見知りの私はそういうことはしないのですが、たまたまカメラを持っていたのと、まわりにあまり人がいなかったこともあって、ツーショット写真を撮らせてもらいました。

集○会で地球交響曲の上映会をすることが本決まりになった頃、「地球交響曲・第四番」も公開されたので、その時のボクネンさんとの写真をみんなに自慢しようとひっぱりだしてきました。するとその時の写真のネガの、ボクネンさんのコマの隣のコマに、2000年8月27日「集○会」がはじめて顔をあわせた時の5人の思い出の写真が並んでいるのを見つけ、びっくりしてしまいました。

あの夏・・・。

「ほんのちょっと集るだけ」のつもりだったのに、もうあの時から、「集○会」と「地球交響曲」はこんな風にちゃんとつながっていたのです。




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